音乃木坂図書室 司書
別荘より歩く事10分、登山口入口までやってきた9人。
だがそこに立てかけてある看板を見て穂乃果が絶句する。
「げっ...頂上まで482m...徒歩でおよそ2時間って書いてあるけど...これ本当に登るの海未ちゃん...?」
「何を言ってるのです穂乃果。練習も兼ねてるって真姫が言ったじゃないですか。ただ登るのではなくて走って登るのですよ!」
鬼軍曹の本領発揮である。 さすがに海未のこの発言には全員が”えっ...”と戸惑いの表情で海未を見る。
いくら何でも山を走って登るのは無茶な気もするが、練習に対して決して妥協を許さない海未である。
過去の合宿では遠泳10㎞を当たり前のようにトレーニングメニューに入れていたぐらいなのだ。
今回の山を登るのを走って行うというのは、海未にとって当然の選択肢だった。
渋々であるが全員が海未に従う。
ここで反抗しても無意味な事は全員が理解しているからである。
幸いなことに登山路は割と整備されており(と言っても階段であったり、砂利道ではあるが)走る事自体にはさほど問題はなさそうであった。
そこへ、何かを思いついたかのように絵里が言う。
「そうね...ただ登るだけじゃ面白くないから一番遅かった人が全員にジュースおごるってのはどう?」
「ふふん、いいじゃない。その勝負乗ったわ!」 にこが賛同する。
他のメンバーもOKと頷く。 「やったにゃー、タダでジュースが飲めるにゃー」
「凛、喜ぶのは早いんじゃないの?私に勝てるとでも思ってるわけ?」
「いや、にこちゃんには負けることはないと思うにゃ」 確かに凛の言う通りである。
凜はこの9人の中で運動神経が飛びぬけている。
普段のトレーニングの走り込みでも当然のように一番であり、実際にメンバーの誰一人として凜に勝てるとは思っていない。
にこに関してはいつも通り、ただの負けず嫌いである。
「うーん、そうだにゃー、ただ勝負しても凜は負ける気がしないからハンデ10分あげるにゃ。そのかわり、凜が買った時はジュース2倍でどうにゃ?」
「面白いじゃないの、痛い目見ても知らないわよ。でもさすがにハンデ10分っていうのはあんたでもキツイんじゃない?そうね...凛、これであんたが私に買ったらスイーツもおごってあげるわ」 「やったにゃー、スイーツもゲットしたにゃー!」
「そのかわり、私に負けたら、今までの私に対する非礼を詫びてもらうわよ。みんなの見てる前で私に額ずきなさい」
「大丈夫にゃー、負けないから謝らないにゃー」 にこ対凛の争いが過熱していた。
そこに海未がスタートの合図をかける。
「それではいきますよ。よーい...スタート!」
凜を除いた8人が一斉に走り出す。凜はストレッチをしている。
さっきまでは渋々であったのが、嘘かのように、ジュースであったらいスイーツであったり、はたまた先輩としてのプライドを欠けた勝負となった途端に、やる気を見せるメンバーであった。
彼女たちはμ'sとして1年間、かなりハードなトレーニングを積んでいた。
ライブで歌いながら踊る、それも笑顔でとなると想像以上に体力を要するのだ。
厳しいだけでなく緻密に計算された日々の走り込み、朝練、筋トレといった地味な海未のトレーニングメニューを地道にほぼ毎日こなして来た彼女たち。
知らないうちに相当な体力・持久力、そしてダンスに必要な美しくてしなやかな筋力が身についていた。
しかし、この山登り、しかも走って登るというのはさすがの彼女たちにとっても厳しいものだった。
メンバーの半数以上は中腹を超えたあたりからは歩いての登山となっていた。
だが一人だけ別格がいた。 それはもちろん凛である。
半分ほどの地点であっさりとにこを追い抜いていく。
ハンデ10分が嘘かのように。 「にこちゃん遅いにゃ、バイバイにゃー」
「くっ...スタミナモンスターめ...ハァハァ...」 息が切れて、大した事も言えないにこであった。
並外れた運動神経と身体能力を持つ凜は、陸上部や運動部から、常にスカウトされているぐらいなのだ。
10分というハンデは凛にとってないにも等しかった。
途中で皆、走る事ができなくなるだろうからと思っていた凜は、唯一頂上まで走り切ったのである。
「いっちばんにゃー、ジュースにスイーツゲットだにゃー、いぇいぇ!」
一番に登り切った凜。 汗をかいて息を切らしてはいるが、まだまだ余裕が見て取れる。
後続がやってくる気配はまだない。
皆が登り切るまでの暇を持て余すかのように、凜は躍り出していた。
山を走り切って登ったのにこれだけの余裕がある凛の身体能力は圧巻であり、もっとハンデがあってもいいぐらいであった。
さすがは自称ネコ科の凛といった所であろうか...それから約10分、凜から遅れる事ようやく2番手の一団が頂上へとたどり着く。
海未、にこ、真姫、それに少し遅れる形で絵里が登り切る。
頂上に着いて座り込むにこに凜が声を掛ける。
「約束通り、スイーツゴチになりますにゃー、にこちゃん」
「ハァ...ハァ...あんたどんだけ早いのよ...しょうがないわね...ハァ...ハァ...」
息も切れ、珍しく素直に負けを認めるにこ。
それだけ凛の能力の高さが飛びぬけているという事だろう。
更にこの一団に少し遅れて穂乃果がやってくる。
登り切ると同時に地面に倒れこんで大の字になる穂乃果。
「ハァ...ハァ...死ぬ...ハァ...ハァ...海未ちゃんの鬼!」
海未に対し文句を言う穂乃果だが、さすがの海未も疲れたのだろう、言い返す事もなかった。
そして最後の3人が見えてくる。 ことり、花陽、希による三つ巴の争いだ。
物凄い形相を浮かべる3人。
疲労と負けて奢りたくないという意地が相俟って、とてもアイドルとは思えない顔である。
お互いがお互いを邪魔するかのように、手を引っ張り、足を引っ張り、もう最後に至ってはメチャクチャであった。
ほんのわずかの差で、ことり、花陽、希の順でのゴールとなり、希の最下位と奢りが確定する。
3人は重なるように倒れこみ、大きく息を切らしている。
最下位を免れたことりと花陽は苦しそうな表情の中にも安堵が見え、希は苦しさと悔しさがにじみ出ている。
そんな3人を見て、先にゴールして息を整えていたにこが言い放つ。
「あんた達3人は胸にそんなおもりをつけてるから遅いのよ!」
思い切り皮肉を言うにこに希が反撃する。
「ハァ...ハァ...さすがAカッパーズのみんなは早いやんか...」
息を大きく切らしながらも皮肉で言い返す希。
そしてにこ、凛、真姫に3人を順に見渡す。
希の言葉の意図に気づいたのは真姫だけだった。
「何言ってんの希?意味わかんないけど」 とにこがいう。
「かっぱが何なのかにゃ?」と凛。
「失礼ね、私はBよ!」 真姫が起こって言い返す。
希は息を切らしながら笑っている。
ようやく何を言われたか理解した2人も言い返すが希に勝てるわけもなく、あっさり手玉に取られるだけであった。
しかし勝負は希の負けであり、潔く全員にジュースを奢る希。
そのあたりは先輩の貫禄であろう。
合宿初日、遊びと練習を兼ねた登山は、想像以上にハードであったが、全員がそつなくこなすあたりは日頃の青果であり、さすがである。
その後9人は展望台から美しい景色を堪能し、地元食材を使用したレストランでスイーツに舌鼓を内、日帰り温泉ではいつものように希のワシワシが炸裂し、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
真姫の別荘に戻る頃にはすっかり日も暮れていた。
そして嬉しいことに別荘ではシェフによる豪華なディナーが待ち受けていた。
続く